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「勤勉な国」日本で組織的不正が起こる根因・・・これは参考になる意見!
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    「勤勉な国」日本で組織的不正が起こる根因 1/6(日) 5:50 Yahoo!ニュース 12 勤勉と言われてきた日本で相次ぐコンプライアンス違反問題を、ベネディクトの理論に当てはめて考える(写真:metamorworks/iStock) 『武器になる哲学』の著者で、哲学科出身の外資系コンサルタントという異色の経歴を持つ山口周さん。実は、「日本で次々にコンプライアンス違反が起こる」と、数年前から予言していました。その理由、そして対策とは――。 ■『菊と刀』が教えてくれる、組織的不正の原因  筆者が「日本では今後、コンプライアンス違反が続出して社会問題化するだろう」と考えて自分のブログなどで書き始めたのが、2015年ごろのことでした。残念なことに、この予測は今のところ当たってしまっています。 昨年ニュースになっただけでもスルガ銀行のシェアハウス不正融資問題、耐震ダンパーの数値改ざん、大手自動車メーカーの燃費や排ガスの不正検査と、枚挙にいとまがありません。  なぜ、「勤勉」と言われてきた日本の現場で、不正が起こるのか。この問題は文化人類学者のルース・ベネディクトが『菊と刀』で指摘した「恥の文化」の枠組みで考えるとわかりやすいと思います。  ルース・ベネディクトは、 諸文化の人類学的研究において重要なことは、恥に大きく頼る文化と、罪に大きく頼る文化とを区別することである。道徳の絶対的基準を説き、各人の良心の啓発に頼る社会は、<罪の文化>と定義することができる。  としたうえで、さらに 恥が主要な社会的強制力になっているところでは、たとえ告解僧に対して過ちを公にしたところで、ひとは苦しみの軽減を経験しない。  と指摘しています。つまり「罪」は救済できるけど「恥」は救済できないということです。これは考えてみれば恐ろしいことですよね。西洋の「罪の文化」では、告解によって罪は救済されることに、一応はなっています。この「罪の文化」に対して、ベネディクトは、「恥の文化」においては、たとえそれが悪行であっても、世間に知られない限り、心配する必要はない。したがって「恥の文化」では告解という習慣はない、と指摘しています。  ベネディクトの指摘のうえにそのまま考察を積み重ねれば、こういうことになります。つまり、日本人の生活においては「恥」が行動を規定する最大の軸になる。それはつまり、各人が自分の行動に対する世間の目を気にしているということです。この場合、彼あるいは彼女は、ただ世間の他人が自分の行動をどのように判断するかを想像しさえすればよく、その他人の意見の方向に沿って行動するのが賢明であり、さらには優秀であるということになります。  ということで、最後に彼女は 日本人特有の問題は、彼らは、ある掟を守って行動しているとき、他人は必ずその自分の行動の微妙なニュアンスをわかってくれる、という安心感を頼りに生活するように育てられてきた、ということである。(引用はすべて『菊と刀』講談社学術文庫 より)  とまとめています。この指摘について、何度も転職を繰り返してきた自分がいつも感じていることを重ね合わせると、1つの道筋が見えてくるように思うのです。  いくつかの会社を渡り歩いてきた僕がいつも感じていることは「ある会社の常識は、ほかの会社の非常識」だということです。電通に勤めている人は電通でまかり通っている常識を「世間の常識」だと勘違いしているし、ボストンコンサルティンググループ(BCG)に勤めている人はBCGでまかり通っている常識をやはり「世間の常識」だと勘違いしています。  つまり常識というのは非常に文脈依存性がある、現代アートの用語で言えば「サイトスペシフィック」だということです。何度か転職をすれば、自分が所属していた会社=世間での常識が、そこでしか通用しない常識だったのだという認識を持つことができるのですが、同じ会社にずっといるとそういう相対化は難しい。つまり、会社という「狭い世間」の常識が、社会という「広い世間」の常識と異なるということに気づけないわけです。 ■「狭い世間の掟」を相対化する2つの解決策  ここに「世間の多層性」という問題が出てきます。ある会社の常識、ベネディクトの指摘をつかえば「掟」がサイトスペシフィックであるということは、そこに無批判的に従うということが「広い世間の掟」に反することにもなりかねない。しかし、彼らあるいは彼女らは「狭い世間の掟」には従わざるをえません。なぜなら「恥」は「罪」と違って救済されないからです。「恥」はそのまま「狭い世間」=会社からの心理的・物理的な追放を意味します。それは窓際に送られることであり、あるいは早期退職を勧奨されることです。  救済されない「恥」への恐れから、「狭い世間の掟」に従わざるをえないために発生しているのがコンプライアンス違反だと考えれば、この問題を解決するための本質的な方策が浮かび上がるように思います。  世の中は「狭い世間の掟」に従って「広い世間の掟」を破った人を市中引き回しのうえ打ち首にすることによって、「広い世間の掟」を守らせようとしていますが、個人個人にとっての利得はあくまで「狭い世間の掟」へ従うか従わないかで決まっているのですから、これは筋が悪いアプローチと言わざるをえません。社会全体がよって立つような道徳律を持っていない国ですから、どうしても行動を規定する軸足は「狭い世間の掟」にならざるをえない。  ではそういう社会において、どうやって「狭い世間の掟」を相対化し、その掟がおかしいと見抜く判断能力を身につけるか。答えは2つしかないと思います。  1つは、結局は労働力の流動性を上げろ、という結論になるのではないかと思います。自分が所属している「狭い世間の掟」を見抜けるだけの異文化体験を持つ、ということです。  もう1つは、教養を身につけろ、ということでしょうか。教養とは何か?  「狭い世間の掟」を妄信することがないよう、人や組織とはどういうものかを知っておくことですね。  その1つの例として、スタンレー・ミルグラムが行った社会心理学史上、おそらくもっとも有名な実験である「アイヒマン実験」を紹介しましょう。私たちは一般に、人間には自由意思があり、各人の行動は意思に基づいていると考えています。しかし、本当にそうなのか? という疑問をミルグラムは投げかけます。具体的には次のような実験でした。 ■人が集団で行動するとき、個人の良心は働きにくくなる  新聞広告を出し、「学習と記憶に関する実験」への参加を広く呼びかける。実験には広告に応じて集まった人から選ばれた2人の被験者と白衣を着た実験担当者(ミルグラムの助手)が参加します。  被験者2人にはクジを引いてもらい、どちらか1人が「先生」の役を、そしてもう1人が「生徒」の役を務める。生徒役は単語の組み合わせを暗記し、テストを受けます。生徒が回答を間違えるたびに先生役は罰として生徒に電気ショックを与えるという実験です。  クジ引きで役割が決まったら全員一緒に実験室に入ります。電気椅子が設置されており、生徒は電気椅子に縛り付けられる。生徒の両手を電極に固定し、身動きができないことを確認してから先生役は最初の部屋に戻り、電気ショック発生装置の前に座ります。  この装置にはボタンが30個付いており、ボタンは15ボルトから始まって15ボルトずつ高い電圧を発生させる……つまり最後のボタンを押すと450ボルトの高圧電流が流れるという仕掛けです。先生役の被験者は白衣を着た実験担当者から、誤答のたびに15ボルトずつ電圧を上げるように指示されます。  実験が始まると、生徒と先生はインターフォンを通じて会話します。生徒は時々間違えるので、電気ショックの電圧は徐々に上がる。75ボルトまで達すると、それまで平然としていた生徒はうめき声をもらし始め、それが120ボルトに達すると「痛い、ショックが強すぎる」と訴え始めます。しかし実験はさらに続きます。やがて電圧が150ボルトに達すると「もうダメだ、出してくれ、実験はやめる、これ以上続けられない、実験を拒否する、助けてください」という叫びを発します。電圧が270ボルトになると生徒役は断末魔の叫びを発し始め、300ボルトに至って「質問されてももう答えない!  とにかく早く出してくれ!  心臓がもうダメだ!」と叫ぶだけで、質問に返答しなくなります。  この状況に対して白衣を着た実験担当者は平然と「数秒間待って返答がない場合、誤答と判断してショックを与えろ」と指示します。さらに実験は進み、電圧は上がる。その電圧が345ボルトに達すると、生徒の声は聞こえなくなります。それまで叫び続けていたのに、反応がなくなってしまいます。気絶したのか、あるいは……。しかし白衣の実験担当者は容赦なく、さらに高い電圧のショックを与えるように指示します。  この実験で生徒役を務めているのはあらかじめ決まっているサクラでした。つねにサクラが生徒役、応募してきた一般の人が先生役になるようにクジに仕掛けがしてあり、電気ショックは発生しておらず、あらかじめ録音してあった演技がインターフォンから聞こえてくる仕掛けになっていたわけです。しかし、そんな事情を知らない被験者にとって、この過程は現実そのものでした。会ったばかりの罪もない人を事実上の拷問にかけ、場合によっては殺してしまうかもしれない、という過酷な現実です。  さて、読者の皆さんがこの被験者の「先生」の立場であったら、どこで実験への協力を拒否したでしょうか。ミルグラムの実験では、40人の被験者のうち、65%に当たる26人が、痛みで絶叫し、最後には気絶してしまう(ように見える)生徒に、最高の450ボルトの電気ショックを与えました。  これほどまでに多くの人が実験を最後まで継続してしまったのはなぜなのか。1つ考えられる仮説としては「自分は単なる命令執行者にすぎない」と、命令を下す白衣の実験担当者に責任を転嫁しているから、と考えることができます。  「自らが権限を有し、自分の意思で手を下している感覚」の強度は、非人道的な行動への関わりにおいて決定的な影響を与えるのではないか。ミルグラムは仮説を明らかにするため、先生役を2人にして、1人にはボタンを押す係を、もう1人には回答の正誤の判断と電圧の数字を読み上げるという役割を与える実験を行いました。このうち、ボタンを押す係はサクラなので、本当の被験者の役割は「回答の正誤を判断し、与える電気ショックの電圧の数字を読み上げる」ことだけとなり、つまり実験への関わりとしては、最初のものよりもより消極的となります。果たせるかな、最高の450ボルトまで実験を継続した被験者は、40人中37人、つまり93%となり、ミルグラムの仮説は検証されました。  ミルグラムによる「アイヒマン実験」の結果はさまざまな示唆を私たちに与えてくれます。  1つは官僚制の問題です。官僚制と聞けば、官庁などの役所で採用されている組織制度と考えがちですが、上位者の下にツリー状に人員が配置され、権限とルールによって実務が執行されるという官僚制の定義を当てはめれば、今日の会社組織のほとんどすべては官僚制によって運営されていることになります。  ミルグラムの実験では、悪事をなす主体者の責任が曖昧な状態になればなるほど、人は他者に責任を転嫁し、自制心や良心の働きは弱くなることが示唆されます。これがなぜ厄介かというと、組織が大きくなればなるほど、良心や自制心が働きにくくなるのだとすれば、組織の肥大化に伴って悪事のスケールも肥大化することになるからです。 ■「これは間違っているのでは?」と最初に言える重要性  もう1点、ミルグラムによる「アイヒマン実験」はまた、私たちに希望の光も与えてくれます。権威の象徴である「白衣の実験担当者」の間で意見が食い違ったとき、100%の被験者が150ボルトという「かなり低い段階」で実験を停止しました。  この事実は、自分の良心や自制心を後押ししてくれるような意見や態度によって、ほんのちょっとでもアシストされれば、人は「権威への服従」をやめ、良心や自制心に基づいた行動をとることができる、ということを示唆しています。  人は権威に対して驚くほど脆弱だというのが、ミルグラムによる「アイヒマン実験」の結果から示唆される人間の本性ですが、権威へのちょっとした反対意見、良心や自制心を後押ししてくれるちょっとしたアシストさえあれば、人は自らの人間性に基づいた判断をすることができる、ということです。これは、システム全体が悪い方向に動いているというとき「これは間違っているのではないか」と最初に声をあげる人の存在の重要性を示しているように思います。 山口 周 :コーン・フェリー・ヘイグループ シニア・クライアント・パートナー 関連記事 「超一流」と「一般人」越えられない休み方の差 「死ぬほど働く人」が辞められない深刻事情 気軽に始めて職場崩壊「危険な人事制度」2選 無責任なヤツほど出世する残念な職場の正体 何者にもなれなかった「40男」たちの絶望 最終更新:1/6(日) 5:50 東洋経済オンライン (c) Toyo Keizai, Inc.,
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